エビデンスを信じすぎたら、僕の体は動かなくなった。
「科学的に証明(エビデンスあり)されてるから、これが正解!!」
そう思って、
疑わずにトレーニングしていた時期が、自分にはあります。
エビデンス、
つまり科学的根拠のある方法を選ぶのは
たしかに賢い選択。
だって、
再現性があって、信頼性もある方法なので
無駄な努力をしなくてもいいし成功率もあがるから。
「なんか、よさそうじゃね?」的な
根拠のない、「なんとなく」な方法より100億万倍いいと思う。
が…
そう思って、
論文に書かれているトレーニングに邁進しているものの
「てんで(全く)結果が伴わない」って壁に遭遇したの。
「なんで?」
「エビデンスがあるんじゃないん?」
んで、論文よくよく読んでで気づきました。
「おいおい、お前ら(被験者*言葉悪くてすいません…)20代のピチピチ大学生やないかい!」
40歳代まっさかりの自分が
半分しか人間していない、20歳代ピチピチの若者と同じトレーニングして
同じ効果を得られる保証なんて、どこにもないでしょ?
仮に年齢が関係ないとしてもよ?
トレーニング効果を左右する変数には、
「種目」「重さ」だけでなく
「意識」「スピード」「効かせ方」といった、
論文には記載がない、数値化できない変数が
腐るほどあるのです。
そういった変数を全て論文内で条件づけることはできません。
つまり…
エビデンスは正しい。
でも、「自分にとって正しいか」は、また別の話ってこと。
「じゃぁ、どうしたらいいん?」
はい、これが今回のテーマです。
エビデンスは、たしかに強い。が…
そもそも、
エビデンスを重視すること自体は
本当に大切だと思っています。
スポーツ科学の世界では、
「なんとなくよさそう」で広まったトレーニング方法が
後から「実は効果なかった」「超絶非効率だった」って否定されるケースが
腐るほどあるから。
例えば、昔の根性論的な指導。
「休むな!」
「水を飲むな!」
「量が命じゃ!」
自分が中学生のときとか…
「水は手ですくえる量を一杯だけ!」とかってルールあったもんね。
真夏の炎天下で…
マジ死ぬかと思った…
今となっては完全にアウトな指導法も、
当時は「経験則」として信じられていました。
そういう「根拠なき常識」を排除していくためにも
エビデンスの積み上げは絶対に必要だと思います。
だから自分も、
トレーニングや栄養摂取については、
エビデンスのある方法を優先して選ぶようにしています。
が…
が…ですよ?
「エビデンスがある=自分に効く」
これはねぇ。。。
そうとも言えないのです。
「でも、それって”あなた”の話?」
さっきも少し触れたけど、
もうひと堀りしてみましょうか。
これ自分の体験談。
「レッグプレスとカーフレイズがジャンプ力向上に有効」
こういう研究があります。
(Caruso et al., 2008 / Journal of Strength and Conditioning Research)
「やるしかねーやろ!」
で、やりました。
はい、ちゃんとやりましたよ。
で、
結果は…
…
全く伸びませんでした。
いやまじ、
ピクリとも伸びんかったね。
「なんで?エビデンスあるんやないん?」
って思って、
論文をよく読み返してみると。。。
書いてあったの。
「healthy college-age subjects(健康な大学生)」
、
、
、
ん?
いや、
自分、熟しまくった40歳代なんですけど?
年齢だけでもこれだけ条件が違うのに、
現実のトレーニングには
論文では統制できない変数が腐るほどある。
「種目」「重さ」はまだわかるけども、
実際には、、、
- どのくらいのスピードで動かしたか
- どこに効かせようと意識していたか
- その日の疲労やコンディション
- 食事・睡眠の状態
こういった「数値化できない変数」が、
トレーニング効果を大きく左右するのに、
論文には記載がない。
というか、きりがないので
そもそも載せようがない、、、と。
つまるところ。
エビデンスは「ある特定の条件下での結果」でしかなくて、
厳密な意味では、自分にとってのエビデンスには
なかなかなりえないんですね。
ちなみにこの「変数」の話、
以前書いた部位意識の記事とも繋がってくる話なので、気になる方はそちらもどうぞ。
“たまたま上手くいった”が、世界を変えてきた。
ここで少し、
エビデンスの「生まれ方」について考えてみます。
研究って、
どういう流れで始まるか?
「仮説を立てて→検証する」
まぁ、そうね。
んじゃ、
なんでその仮説を考えるに至ったの?
っていうと、、、
「なんかよくわからんけど、こんなんできましたけど?」
「うおぉ!じゃあ、なんでこうなったんか証明してみようか!」
って流れ。
つまり、
「経験則が先にあって、エビデンスはあとからついてくる」
ことが多いってこと。
元トレーナーとして現場にいた自分からすると、
これは結構実感がある話で。。。
「このトレーニング、この人やたらと効果でるな」
って感覚が先にあって、
理由は後から考える、みたいな。
ってことはよ?
今この瞬間も、世界のどこかで
「たまたま上手くいった経験則」が腐るほど生まれていて
エビデンス認定されるのをまっているってことでしょう?
つまり、、、
エビデンスは大切だけど、
まだ立証されていない「経験」にも、ちゃんと意味があるんじゃないか?
そう思わずにはいられないわけです。
経験を無視すると、”埋もれたエビデンス”も捨てることになる。
もうちょいとだけ踏み込んでみると。。。
「エビデンスのある方法だけをやる」
これ、一見すごく賢い選択に見えますね。
無駄がなくて、効率的で、再現性があると。
でもこれ、裏を返すと、、、
まだ立証されていない「経験による成功」を、まるごと捨てている
ってことでもあると思うのです。
元バスケ選手として現場にいた頃、
「なんかわからんけど、この体操したら、めちゃ跳べるようになるな」
って感じることがありました。
自分で編み出したって程でもないんですが、
自分であれこれ試行錯誤しているうちに発見して、
練習や試合前によくやっていましたね。
もちろん、
データや論文はなく、
エビデンスと呼べるものは皆無でしたが、効果は絶大でした。
今思えば「未立証のエビデンス」だったんじゃないか?と思います。
エビデンス信仰が強くなりすぎると、
そういう「まだ名前のついていない成功体験」を
「根拠がないから」ってバッサリ切り捨てることになる。
これって
超絶もったいなくないですか?
そういう経験の中にこそ
次の時代のエビデンスが眠っているかもしれないのに
その可能性を捨ててしまう。
エビデンスだけを追いかけることは、
一方で「埋もれたエビデンス」を無視することだと思うわけです。
じゃあ、どうしましょ?「エビデンス・経験との付き合い方」
じゃあ結局、どうしたらいいの?問題。
「エビデンスは他人事だから意味ない」ってこと?
「経験が最強で、根拠もなくあれこれ試すしかない」ってこと?
いやいや、
そういうわけではりません。
つまり。。。
エビデンスは、ちゃんと使う。
でも「参考にする」くらいの距離感がいいじゃないか?と思います。
「この研究、自分の条件に近いかな?」
「年齢は?トレーニング経験は?目的は?」
そうやって、
自分との条件のズレを意識しながら読む。
条件が近ければ、
「これって効果がでやすいかも」的な距離感が
ちょうどいいかもしれません。
そして、
経験則は「仮説」として扱う。
「なんかこれ、効いてる気がするな」
「なんで効果がでるのかな??」
「もしかして、〇〇がいいのかな…」
「もうちょい試してみるか…」
的な距離感。
エビデンス&経験、
両者を丁度いい距離感で実践することで
「自分だけのエビデンス」ができていく。
これこそが、
自分にとって「最強のエビデンス」になるのではないかと思います。
だって、45歳おっさんのジャンプ力をあげるを研究なんて存在しないでしょ?
つまり、、、
エビデンスに使われるんじゃなくて、 エビデンスを「使う側」になる。
作られたエビデンスに従うのではなく、エビデンスを「作る側」になる。
そのために、経験を仮説として動き続ける。
これが、
より効果的で効率的な戦い方じゃないかと思うわけです。
関節も筋肉もポンコツ…
まともに動ける残り時間も少ない…
そんな40代のおい猿が勝ち残るには、これしかないんじゃね?
って思ってます。
まとめ「結局、動き続けたやつが勝つ」
長々と書いてきましたが
言いたいことはシンプルです。
エビデンスは大切。
経験も大切。
でも一番大切なのは、
どちらかにも縛られることなく「動き続ける」こと。
「エビデンスがないからやらない」
「経験則だから意味ない」
どっちも、
もったいないし足りない。
今のエビデンスが数年後には「実は勘違い」ってことは珍しくありません。
「あいつだから上手くいく」って言われる経験が、
実は未来のエビデンスになる可能性もあるわけです。
(もちろん逆もある)
なので…
エビデンスを参考にしながら、
経験を仮説にしながら、
自分の体で試し続ける。
その積み重ねが、
誰にも真似できない「自分だけのエビデンス」をつくる方法ではないでしょうか?
45歳からダンクを目指してる時点で十分変態レベルですが。
それでも動き続けます。
自分に最適のエビデンスを探しながら。。。
一緒に頑張りましょう。
以上、最後までありがとうございました。

